2015年7月7日火曜日

芸術は誰のものか?

仕事上、資料として夫が買い求めた「絶歌」
置いてあれば読みたくなるのが人間心理だ。出版の如何については反発、嫌悪、是非を問う様々な意見が溢れる。
あくまでも、世に出された文芸に対峙した私の率直な感想を書いておきたい。

興味本位でページを開いたつもりが、幾らもめくらないうちにすっかりのめり込んでいた、というのが最初の驚きだった。
著者のハンディキャップのひとつに起因するのかもしれない、ありありとした人物描写、リアルな情景、生々しい感情の記憶…
しかしそれだけでは片付けられない筆力がそこにはあった。
私が目の当たりにしているのは、確かに、“芸術”だった。

いくら記憶が正確でも、それが読む者の痛みとして胸に迫ってくるような表現に昇華できるだろうか。
著者の目を通された景色がこんなにも私の前に広がるだろうか。

いつの間にか私は、この著作の内容が事実であろうが、フィクションであろうが、どうでもよくなっていた。
1人の少年の、多感な思春期と青春期に一時も目をそらすことができず、ただ茫然と、紡がれた言葉たちを私の中で再構築していた。
そして、そうしながら同時に、この体験に悦びを覚え、間違いなく感動していた。

この本を書いた人物は、確かに重大な許されない犯罪を犯した犯罪者だ。
でも、今ここに、私の手の中にあるそれは、“芸術”だと思えてならないのだ。

あの、天上から降ってきたかのような、至高の音楽を作り出した人…モーツアルトも、決して品行方正な人間ではなかった。

芸術は生まれ出た時から、完結され独立し、そして鑑賞されるのではないだろうか。
独り歩きしたそれは、もはや作者の存在をも消してしまう。
作者の生い立ち、性分などを知ったところで、その芸術が私に与えた感動が変化するだろうか?

深く、これから先もずっと、考えていくことになるような気がしている。









がんができて。