2020年6月22日月曜日

女帝 小池百合子のサバイバルとフェミニズムの達成

コロナ禍で、長年放置していたツイッターを本格始動させ、もともと知り合いとはつながっていなかったこともあり、様々なコロナ関連のニュース、政治動向、人権運動やフェミニスト運動の情報収集に傾倒するようになった。

前々からあまりにもひどい政権に嫌気がさしていた。今か今かと転落を待っているのに、何度もその契機はあったのに、いつまでたっても辞めようとしないし、引きずり下ろせない。検察庁法反対のツイッターデモにも参加し、それまで不気味で醜悪な政権擁護の声に抑えつけられていた、まともな人々の大きく深い怒りのうねりに感嘆しながら、私はますますツイッターに励ましを求めるようになっていた。

そんな中、都知事である小池百合子のルポが大変話題になっており、タイムラインにレビューが多く並ぶようになった。とても興味がわき、さっそくKindleで購読することにした。

目が離せなかった、という言葉がふさわしいほど、そこには、小池百合子という人間がどのようにしてこの日本社会や政界で生き抜き、のし上がり、今もなおしがみついているかを、すさまじい説得力を持ってまざまざと見せつけ、その時代時代の周辺で起こった事件も巧みに絡めた、一本の映画のようなスペクタクルがあった。

虚飾と虚偽と虚像を積み上げ人々を欺き、自身も男尊女卑のスタンスを貫き、それを喜ぶ男性社会に巧みにつけ込み食い込んでいく。ある意味で、当時の現状を女性が最短で打破できる唯一の方法だったのかもしれない、とも思えてくる。もしも、本当は立派で誠実な目的を持っていて、最後はそれらを覆したのなら、彼女はまごう事なき聖女になれたし、支持は熱狂的なものになっただろう。

けれど、そうではなかった。彼女の復讐相手は、金持ちのお嬢様や、父親を破産に追い込んだ原因だと思っている政治家や、嘘をつくしか生きる術がなかった社会、それだけだった。決して他者、そして弱者を思いやるのではなく、いかに彼女自身にスポットライトが当てられ、人よりも優位に立てているか、それだけが望みだった。

あまりにもおぞましい姿だが、彼女の策略を、謀略を、その力を、真の意味での女性進出に利用できていればどんなにか良かっただろうと、夢想してみる。

ツイッターで多種多様な問題提起を知るうち、夫にも言ってみたい事が多くなり、結果議論になることも少なくなかった。夫は家でリラックスしたいのに何をさせるか、と憤ったが、職業病で、自分もヒートアップせざるを得ない。その中で、フェミニズムについて、なにもかもを否定し排除する風潮はいかがか?という話になった。

ルッキズム、ホモショーシャル、マンスプレイニング…沢山の名称が生まれていて、私は興味深くそれらの指摘を見つめていた。本当にそうだ、と思うことも多くあったし、このように名称があることで確かに少しずつ予防されてきた事象もある。セクハラ、DV…。

しかし夫は、無闇に締め付けることで、男性側はますます硬化し、女性を追い出そうとするのではないか、と論じた。夫のアイデアはこうだ。

今の企業広告、つまりスポンサー、そしてそれに支えられているメディア、政界、それら全てにおいて、まったく女性の数が足りていない。女性は半分いるのにもかかわらず、ほぼ男性だけで意思決定が為されている。ここを正さないことには、ずっと女性視点不在の社会を変えることは出来ないのではないか。それならばまず、女性の社会進出を阻んでいる出産育児、家事、ここを男性が担当するよう整えなければいけない。男性側にも大いにメリットがある事を示しつつ。意識の問題はもちろんそうだが、制度として強引に変革させる事が必要なんじゃないか。それが当たり前になれば自ずと核から変わっていけるのでは、と。

根本にある、女性を消費対象(性的)として見ることについて突き詰めてみると、必ずしもそれが蔑視ではないことも理解できた。そうなっていく病的な男性ももちろん多く存在するが、女性が半数いて動かせていける社会ならば、そのようなカルチャーも撲滅しうるかもしれないと思った。

決してかなわない未来ではないと思う。一足飛びに障がい者の方々を国会に送りこんだ事例もある。小池百合子のサバイバル手法に学び、たとえずるがしこくとも、過半数の女性が社会を動かす未来を虎視眈々とつくる、そんな戦略をフェミニストの人々には立てて欲しい。図らずも小池百合子がその近道を示したというのは、度が過ぎているだろうか。

もしも彼女に、女性としてこの社会を打破する強固な野望があったならば…!そう妄想せずにはいられないのだ。


がんができて。