2024年3月11日月曜日

がんができて。

 自分には起こらないだろうと、いつもどこか他人事に思っていた、

がん が自分にできた

それは痛みをもたらし、弱気をもたらし、悲しみをもたらした。

でも今、優しさと思いやりと祈りと励ましといたわりと…抱えきれないほどの幸福を贈られていると感じる。

傲慢だった私。死は怖くない、誰かに介護してもらってまで生きたくはない、死期を自分で選びたい、自分勝手にそんなことを考えていた。がんができて、それらがいかに恐ろしく酷く尊厳を無視した最低の思考だということに、やっと気付いた。

この世に生まれて大切に育てられ、ここまで幸運に様々なことに恵まれて、たくさんの素晴らしい経験をした。けれど、そのどれひとつも自分一人で為し得ることではなかった。いつもいつも支えられていたのに、すべてを自分だけのモノのように、生きることすら軽んじていた私に訪れた、がんは、生き直せというチャンスだった。

先日、芥川賞を取った車いす生活を送る作家のインタビューを読んだ。健常者に偏ってフィットしたこの社会で、障害者として生きることの現実を、彼女は作品中でも赤裸々に教えてくれている。「生きる」ことは健常者だけのものではないのだ。当たり前のことなのに、私もこうなるまでそれを忘れながら漫然と、そして傲慢に毎日をやり過ごしていた。変わり映えのしない日々を恨み、いつしか未来を悲観して、投げ出したいとさえ思っていた。

なんという欺瞞、自分本位

贈られたたくさんの思いを得て、私こそが誰よりも一番に強く祈り、生きようとしなければならないと決意した。もうこれからの日々に何の不安もない。私は毎日今を乗り越えて必ず治癒し、あらゆる人に絶対に感謝を形にして還さなければならない。

そのために、懸命に、生きる。



2023年6月30日金曜日

夫婦という極小単位で余生を送るということ

長年夫婦を続けてきて、もはや何が良くて現状夫婦なのかということが分からなくなるほどのところまできてしましまった気がしている。

若いころならいくらでも挙げられただろう。優しい、穏やか、偉そうにしない、映画が好き、音楽が好き、買物が好き、好きな作家が同じ、立派な職業、金銭感覚も似ていて、好き嫌いもない…お見合いならこれ以上無いくらいマッチングしているのだろう。

しかしよくよく見てみたら、この中で不動の物は趣味と職業くらいではないか。趣味と職業など、その人の表面的特徴でしかなく、本質的な部分を形成しているものでは全くないのだ。

そして性格部分も若いときにだけ装っていた被り物だとしたら…?

本音や本質はもはや隠されず暴力的に明るみにさらされ始めた。本人は理論武装しているつもりだろうが、核心には私とは相容れない自分だけの常識があり、それを妻である私に今まさに押し付けようとしている。これは昔からそうだが、夫は私の絶対的な味方では決してないのだ。いや、でも先日の寝言は確かに存在する本心ではないのか?どちらが本来の姿なのか。わからない。

なぜ未だ夫婦でいるのか?必死で理由を探そうとしている。あらゆる粉飾をそぎ落とした先に残るものはなんなのか、この人をまだ嫌悪せず一緒に暮らす選択をしている訳はなんなのか…。幻滅している、嫌いだ、と夫に言われてもショックすらなく何も感じなかった自分を驚きながら見つめている。私のほうがとっくの昔にこの人を好きでいることを諦めていたんだ、と気付く。

子育てもほぼ終了し最後に残るのは夫婦という極小単位だ。ひとりの人間同士として一緒に人生を楽しめるのかどうか、それが全てではないかと近頃思う。エンタメの観点では数々の点で合致している。それは認める。


親友のような夫婦などとよく言うが、人生ここまできたら友でもきょうだいでも何でもいい、いつ来るとも知れないエンディングまで、時にはひとりで、時には共に楽しめたらそれでいい、と思う。その為には自分が壊れるような犠牲は絶対に払わない。身を守りつつ私は私の人生をデザインするのだ。 

2023年2月1日水曜日

夫の寝言

突然にやってきて私を苛む不調。

しゃがんで立った時のブラックアウト。いつもは感じないはずの頭部の重みが首にのしかかり、鈍痛をもたらす。

それはじわじわと広がってやがて目も開けていられなくなる。頭痛は吐き気すら誘発する。

フラフラと日頃より早く一人寝床に入った。過重な自分の頭を枕に沈めて痛くないポジションを探しているうちに眠りに落ちたようだった。

ふと目が覚めてじっと頭痛を自覚していると、隣で震える声が聞こえた。

「マキちゃんがどんな気持ちで…」
「マキちゃんにとりあえずいっかい謝って」
「黙って聞けっていうてるやろが!」

私の名前を何度も口にする、ハッキリとした夫の寝言だった。しばらく飲み込めず目を開けて咀嚼していた。夫は夢の中で私のために何かに向かって本気で憤りかなり怒っていた。

普段は事なかれ主義で、誰に対しても争わないし、冗談とも本心とも取れないようなことを私に対しても言う夫が、なぜか夢では大胆にも強気で誰かと戦っていた。私のために。

これがたとえ潜在として夫の中にあるだけで、一生、表には出てこないのだとしても、私は嬉しかった。今まで夫婦を続けてきていろいろなことがあったが、これからはこの人を心から信じられる、そう思えた。

どんな夢を見てたのか少し聞いてみたいけど、きっとおかしなつまらないことだろうからやめておこう


2022年9月6日火曜日

失った3年分の痛み

 ぱったりとなにもかもが止まったかのように失われた2019年から、ちょうど3年が経とうとしている。

ここまで本当に長かった。変わり映えのない毎日にうんざりし、いつ終わるとも知れない気の遠さに心身は擦り減っていった。白髪は大量に増え、就寝中は歯を食いしばっていた。肩に激痛がはしり、首のリンパ腺が腫れ、目の奥はズキズキしていた。ずっと収まっていた手荒れが再発しなかなか治らなかった。ストレスに蝕まれてゆく自分の身体を、私はただ茫然と眺めているしかなかった。

最後に出演したイベントがSNSに記録されていて、2019年となっていた。

そしてようやく今年その催しに再び出ることが決まった。3歳としをとってしまっていた。


年齢を重ねてからの数年は大した事ないと言われたりするが、こうして失ってみて初めて大切で貴重な3年間だったんだと強く思う。自分というものを大方もぎとられたような日々は、生きている意味が見出せず、耐え、凌ぎ、やり過ごすだけのものだった。


この間、決して少なくはない俳優や表現者が自ら命を絶った。さまざまな事情があるとはいえ、その想いがわかる気がしてしまう。それほどに過酷な喪失だった。


今、やっと穏やかに精神がバランスをとっているのを感じる。予定されたステージ、子どもの行事、旅行の計画や海外アーティストのコンサートの案内…それらを目にするだけで、あらゆる不調がみるみる鎮まっていくのがわかる。

また反対に、それらがなかった時間に私がどれだけ苛まれていたのかが実感され、強い恐怖を覚える。


瞬間瞬間を悔いのないように生きたい。失われた時を取り戻すためにも。

2021年8月23日月曜日

コロナ禍に吸い上げられる

 誰もが終息を願って何度も延期し、莫大な時間をかけて準備したプランを中止し、たとえ決行したとしても肩身は狭く、もちろんふれ合える喜びも、共に分かち合う喜びも、自分一人の中に収め鎮めなければいけない。

素晴らしいものであるだろうと想像していた、何年か越しの有観客での大ホールでの合奏演奏は、大袈裟に言うと恐怖と隣り合わせた、おおよそ表現する喜びとは縁遠いものだった。

終わってしばらくたち、残ったのは身体の疲労と、満たされず発散されずに吹き溜まったパフォーマンス欲のようなもの。

制限されるということは抑圧されるということで、それは萎縮を生み気持ちは閉じられていく。演奏という最も自己を解放し精一杯伝えようとするいとなみと、それは真逆のベクトルだ。


誰のせいにしたとしても終わりの見えない、希望を見出せない今が、とてもとてもつらい。

2021年3月24日水曜日

飛び出せ!女たち

昨今、女性差別が敏感に察知され、晒されて、弾劾される。昭和時代には考えられなかった進化だし、本当に喜ばしい。今まで甘い世間に許されてきた男たちがもっともっと抑圧され萎縮し(かつて女性たちがずっとそうさせられてきたように)、やがてそれが世代交代で常識になり、ちょうどいいくらいになればいいのに、と希望を持ってみる。

その上で、女性ももはや能動的にならねばならない、とも思った。ここまで受け身状態を甘んじてはいなかったか?

例えば、PTAや子ども会の役員になって思う。

パソコン苦手なんです〜なんにも分からなくて…主人に聞いてやっとのこと出来ましたぁ

何事にも調べるという手段が、今はもうそれこそ物凄く手軽に身近に転がっているのに?!練習し、習得し、鍛錬することがそんなに無理なことなのか。

例えば、同世代のママ友ですら、

高速は危ないから夫が運転するのー車の長距離運転はお父さんの役目〜運転?できなーい

いつも助手席に座って、高速にも乗らず、遠出も出来ず、それだけ自由を奪われているって思わないのだろうか。

でもこれはやはり子どもの頃から刷り込まれてきた価値観であるとも言える。母親がそのように振舞っていれば、それを見ていた娘はそんなものだろうと踏襲してしまうのだろう。父親がお前はやらなくていい、などど頻繁に言えば、そうか、と疑問にも思えなくなるのだろう。筋力や体力などの物理的な部分での役割分担はあってもいいかもしれない。(それすら鍛えれば男性を超える女性もいる)だけど、自ら世界を狭めるかのような消極性に出会うと、私は歯痒くて仕方がなくなる。

さまざまな、持てるだけのツールをいっぱいにたずさえた、世界にはばたける娘を育てたい。私に出来る限りの力を注ぎ込んで!そのような女性をたくさんたくさん送り出すことも、これからの社会を変えるために、私たちの世代ができるとても崇高なことだ。

母親たち、飛び出してほしい。老婦人、もう一度奮起してほしい。どうか広い世界へ、恐れずに!

2020年8月18日火曜日

妻でも嫁でもない存在で義実家と対峙する方法

 今年もお盆の季節が来て、日に日に鬱屈としてくる。

コロナ禍の精神的な苦しみも相まって、余計に義実家に泊まるということが、耐えられない重圧としてのしかかかる。その上、夫はさなかに仕事が入っており、3日行くうち2日も家を空けるらしい。

行きたくない行きたくない行きたくない

前日に夫と衝突し、険悪なまま出発当日。冷蔵の生協の配達を受け取りたい私の希望さえ受け入れない夫は、さっさと私を置いて子どもらと車を発車させた。その行為には絶望したが、行かなくてよくなったことには歓喜していた。

3日間の一人時間。なんて平和でなんて精神安定!!

上の娘がティーンエイジャーになった今までの10年以上、年二回の長期宿泊、年二回の法事、GWのみならず連休となれば宿泊を強いられていた。休暇期間なのに義実家に行くことは全く休息にはならない。娯楽もない。夫がソファで寛ぎ居眠りする間、女しか料理しない台所に、食事のたびに長時間立つ。勝手のわからない不潔なキッチン、こうせねばならないと束縛された習わしの数々、深夜まで続く作業…私の精神は削られ続けていった。

もうこんなしんどいことはやらないでおこう。私も夫のように寛いで休んでいよう。そう思って何もしない嫁になってみた。しかし無言の圧力は続く。しないでいいよ、ゆっくりしてね、という言葉は始めから永遠にかけられることはない。とにかく行けば働くことが当然の雰囲気。しないでいる自分に罪悪感だけが降り積り、結局心はすり減っていく。

15年の結婚生活で初めてボイコットした義実家行き(置いていかれたのだが)。安寧はあったが、夜は一人で様々考えて、頭がさえて眠れない。思考に思考を重ね、夫とのLINEバトルも経て、ふとあるアイデアが浮かんだ。

報酬があればやれるかも。

夫は自分の両親の価値観や生き方を絶対的に肯定しているわけではない。でも、今更真っ向から否定する気もない。やれることはしてあげたい。おかしなことを言っていても優しく受け流し、実際には従わないがその場を取り繕い続けたいらしい。これは私の中には全くないやり方だし、これを夫の親だからと受入れて無償の奉仕をすることは、もうこれ以上私には不可能だった。だけどこれがギャラの出る仕事なら?義実家を仕事場と捉え義父母を顧客とみなせば夫の望みも叶えられるかも。はなから他人である。たまに泊まりで接客サービスをすると思えば、何を言われても腹も立たない。そこではもはや私は妻でも嫁でもない(私の中でだけだが)。報酬をもらって働く1人のヘルパーだか、家政婦だかなのだ。

そう思った途端、嘘のように心が軽くなった。子どもでもそうだが、ご褒美をもらえるとそれだけで頑張れるのは真理だと思った。夫から与えられている普段の食費や住居費がそれにあたるだろうという論説はここでは意味を為さない。義実家と対峙することに対する対価というピンポイントにこそ、私たち夫婦の間では解決の糸口があった。

私は夫と結婚し、子どもを産んで、無償の愛で家庭を築いてきた。その4人こそが私の家庭だ。義実家の娘でもなければ、嫁と言われるのも違和感甚だしい。結婚した瞬間から下の名前を呼び捨てにする義父には嫌悪すら覚える。それでもなお、同じ他人にずっと尽くさねばならないのなら、もうこれは雇用でしかない。依頼者は夫だ。夫から私が勤労した相当の時間と報酬を、その都度必ず受け取るのだ。

ワクワクしながら報酬契約書を作った。義実家での仕事の効率化アイデアも次々に浮かんでくる。なぜもっと早くこうしなかったんだろう。これでなにもかも円満に収まったのに。

これからは張り切って義実家と対峙出来そうだ。妻でも嫁でもなく、報酬を楽しみに働く1人の人間として。












がんができて。